ちょっと前の俺だったら、この扉を開けずにそのまま寝てしまうことなんて簡単だった。あくびをするみたいにごく自然に出来た。今の俺だって本当はそうしたいし、そうしなくちゃいけないんだって思う。でも、そんな俺の葛藤を無視した指が、いつものようにチェーンを外して、冷たいドアノブを回してしまうのだ。

深夜二時。こういう日はいつも何の連絡もなく、訪問者を知らせるためのチャイムも押されず、ごくごく控えめにドアが叩かれる。様子を伺うように、本当は俺を起こしたくないみたいに。
それでも俺はその音で起きて、あたたかい布団から体を起こして、ひんやりしたフローリングの廊下を歩く。そして迷う。俺以外誰も住んでいない部屋の廊下を歩きながら、何度も何度も迷う。そして迷っているうちに玄関に辿り着いてしまう。



酒とか煙草とか香水とかが混じった凶悪な匂いに包まれた土方さんは、マンションの共用スペースが禁煙なのを知っているくせに、煙草をふかしながら立っていた。夜の澄んだ冷たい空気の中で、白く吐き出された煙が土方さんのまわりに漂っている。
本当は一人でいたいくせに、と、いつも思うけど言えた事はない。

「…お前、眠り浅いよな」
「死ね」

閉じかけた扉に、黒い革靴が硬い音を立てて挟まって、ニヤリと笑った土方さんが指に煙草をのせたまま部屋に入ってくる。我が物顔で廊下を進む、その背から視線をはずせないまま、玄関のドアに鍵をかけた。床に点々と落ちた灰を見て、殴ってでも絶対明日掃除させようと思った。

「総悟、みず」

ダイニンテーブルの椅子に土方さんが腰を下ろすと、さっきまで確かに俺の部屋だった空間が、初めて入った他人の部屋みたいによそよそしくなった。アンタが入ってくるといつも、俺の味方だったものが現実味を無くして色褪せてしまう。そして俺はそうなると分かっているのに、アンタを家に入れてしまう。

目尻を赤く染めた土方さんが、煙草を持ったまま冷蔵庫を指差しながら俺の名前を繰り返す。その度に灰が舞う。面倒だから言われたまま、冷蔵庫に入っているミネラルウォーターを取り出してコップに注ぐ。氷は入れない。前に一度、うんと冷たいのを出したら、体が冷えたとか言って俺の布団に侵入されてひどく困ったことがある。あの日は朝まで眠れなかった。

水道の蛇口に洗って干してあった灰皿と一緒にコップを渡して、向かいの席に座る。背を丸めて頬杖をついて、向かいに座った土方さんが話し始めるのを待つ。

「何でか、酒飲むとお前の顔が見たくなるんだよな」
「はぁ」
「普段はそんなことねーんだけど」
「へぇ」
「終電なかったし」
「死ねよ」
「総悟、みず、もう一杯」
「自分でやってくだせぇよ、そこにあんでしょ」
「オイ」
「あっちょっと酒くせーからあんまよんないで」

テーブルに乗り出して近づいてきたのを、大げさに手を振って押しやると、腕を掴まれて馬鹿力で引っ張り上げられる。上半身がテーブルに上手に乗りきらなくて、ぶつかった腰骨がにぶい音を立てた。

「いって!超いってぇ! 何なんですかアンタまじ殴りますよ」
「いや顔が見たくてよ」

引っ張り上げられて顔を覗き込まれて、ぶつけた腰骨は痛くて、アンタが薬指にはめてる指輪のせいで心臓も痛くて、もうこんなのまっぴらだと思った。
アンタが結婚してから俺はずっと苦しくて苦しくて、終わらせたいのにみっともなく引きずり続けたままで、今まで通りの顔してるけど全然平気なんかじゃないし、でもアンタは変わらず俺に構うし、それが二重にも三重にも傷を育ててさらに苦しくなって、頼むからもう会いに来ないでほしいと毎回心から思う。
それなのにこうして、顔を覗き込まれて頭をくしゃくしゃに撫でられるとぜんぶ忘れてしまう。そうやって何度も繰り返してしまう。

「つーか、奥さんまってんじゃねーの、そろそろ、」
「あ? 寝てんだろ。つーかせっかく会い来たのに相変わらずかわいくねーな!」
「深夜じゃなければ俺ももっとかわいいんですけどね」
「うそつけそんなん見た事ねーよ。いいから泊めろ」
「あーもうわかったから、離してくだせぇよ」

満足そうに髪をなで回して手のひらが離れる、それが惜しくて胸がつぶれそうになる。
学校を出て地元を出て就職して、アンタは結婚して。昔からの腐れ縁どもには、いつまでたっても奇妙に依存し合っているように見えるらしいけれど、この人なしで生きられないのは俺だけだ。昔も今も俺だけだった。そしてこの人にそう思い込ませたままでいるのも、そのせいでこんな夜中に来させているのも、俺だ。誰でもない俺のせいだ。これ以上なんて望めない。でも。


「ねぇ土方さん、さっきの」
「ん?」
「アンタ酒飲むと俺の顔見たくなるんですか」
「………」
「聞いてんのか土方」
「うるせーな、なんか着るもん貸せ」
「ポリ袋ならそこに」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「俺もそのままの意味だ」

もう、こんな夜中に言いわけ作ってまで来なくたっていい。俺の事なんて忘れてしまってもいい。
そのかわりに、俺が切なさと虚しさで押しつぶされそうになりながらドアを開けて、わざわざ出してやった、アンタが今その手に持ってるコップ一杯分でいいから愛が欲しい。それだけがずっと欲しい。
もしくれんなら、口を付けずに一生大事にするから。