三味線の音が小窓から庭に抜ける。椿がいくつも咲いていて、深紅から白、混じり色、三本の半分が蕾。雪に落ちた椿は、安易ではあるがうつくしい、と言う。
センセイのつやつやした黒髪が眼帯の上を滑る。きっとあの上に雪が積もったら綺麗だ。
「まあむかしの因果でいまでも人を守ることに長けた性分なんだろ、土方はあんなんだしな」
あの居候はいつから土方さんの近くにいたのか、気がつくと一緒に隠居していた。
「センセイは?」
もごもごと口の中で豆腐を噛む。ほろほろ溢れて、大豆の味がする。
「おれは普通。」
「ふつう?」
この人が一番ふつうじゃないように思う。
白い盃が傾いて、センセイの口が吸い寄せられる。舐めるように呑んだあと、やっと箸に手を伸ばす。
「これ、みかん。土方さんから」
風呂敷には、みかんが十個ほどと、とうもろこしが三本。中身をあらためて、おれを見る。
「とうもろこしは?」
「坂田の旦那から」
「こんばんはー、山崎です」
かたん、と戸の開く音がして、続いてスーパーの袋の音が廊下を通っていく。
「ねぎ買ってきましたよ」
顔をのぞかせて中身を見せる山崎は、おれを見つけて驚いた顔をした。
「沖田さん居たんですか」
「あんたこそなにやってんでい」
「配達のついでですよ。高杉さん、台所借りますね」
酒屋の山崎は、ここらの酒飲みたちと、もっと山を上がったところに住む者によく配達をしていて、重宝されている。
「ああ」
席を立って山崎のあとをつけた。襖を閉めるしゅんかん、センセイの背中が闇になった小窓に向かってひかり、白い手と白い喉がさらされるのを見た。
とんとん、とねぎをきざむ音。
台所の床は冷たく、勝手口からはわずかに空気が入り込んでいた。さっきまでぬくぬくと火鉢の側にいたおれは腕をさすって、足をもう片方の足の甲にひっつける。
「沖田さん、肉食べますか」
山崎はパックを持ってふりかえる。豚肉だ。
「白飯があれば」
「うーん、冷蔵庫に余りあるかな」
一人暮らしの酒飲みにしては大きな冷蔵庫を開けて、上から下を見る。まずビール、漬け物、梅干し、チーズ、納豆、牛乳、魚の干物、ケチャップ、チューブのしょうが。
「あ、しょうががある。」
タッパーの中に冷や飯があった。一膳と少しくらいの量だ。
「ていうかね、もう鍋にした方がいいんじゃないかって思うんですよ」
「ああ‥たしかに」
おれは湯豆腐と酒で腹がいっぱいになるほど衰えてないのだ。晩はいつも白飯を二膳は食べる。
「白菜あった!あ、春雨とか入れます?」
「あるものとりあえずぶちこんどけい」
「なにしてんだ」
餅とかあるかなあ、と探しはじめて台所上の戸を開けたところでセンセイが入ってくる。赤いどてらで背中が丸い。
「いや、餅とかあったら入れたいなあ、と思って探してたんでさあ」
「ふうん」
センセイは床に並べてある酒瓶を取って戻っていった。
「なあ、山崎」
餅探しは諦めて、白菜を切りはじめた背中を眺めながら、冷蔵庫から出した沢庵を噛む。はい?という気の抜けた返事がこもって聞こえる。
「坂田の旦那と、センセイってどういう縁か知ってるか?」
ああ、という気の抜けた返事が返ってくる。
「むかし一緒に住んでたんですよ」
「‥へえ、初耳」
肉を全部食べたところで、卵が無いことに気付いた。
雑炊には卵、と言うおれにセンセイが山崎を指名して、隣のおばあちゃんから卵一つ下さい、おれの使いだって言えばいいから、と表へ使いに走らせた。
この間はそこのおばあちゃんから柿をもらった。センセイやおれ、弟子たちのことを気にかけているらしい。
三味線のセンセイをやっているからこんなふうだが、もしもその肩書きがなければどうなっていただろうか、とたまに思う。普通じゃない、と思うのはそういうところだ。
いまがなければ消えてしまうような軽さ。
まだ残っている豆腐を掬って器に入れる。
「よく食うな」
「まあ、育ち盛りなんでねえ。」
「ふうん」
この丸い頭を、おれはいつか追い越すだろうと思う。この人煙草も酒もするし。もうすぐ三十後半だし。いまだに年齢を間違えられるらしいが、こんな学生なんか居たら問題だろう。
センセイは盃に口をつけたまんま、おれを見る。
「当て馬になるのなんか絶対にご免でさあ」
押して引いてを繰り返して、揺り起こしてみせる。間に誰も入らせたりしない。
「戻りました。卵と、あとりんご貰っちゃいましたよ。」
センセイはひとつ瞬きをしたあと、珍しく口を開けて笑い、上等だな、と言う。笑うと狐みたいだなあ。神社の狐が笑ったらこんなかんじだろう。
山崎は、何がですか、と言って台所へ消えて行った。
さあ、雑炊食べるぞ。