「俺、明日からいなくなるから」

 高杉の言葉は、いつも唐突だった。へえ、そうですか。沖田は透明の鍋のなかで、ぶくぶく沸騰しはじめている日本酒を眺めながら適当に返した。一見何処で見つけてきたのかよくわからないこの鍋だって、高杉が透明の鍋が欲しいと云って坂田に散々探させて、ようやく此処に存在しているものだった。しかし、どこからどう見ても、この鍋は高杉にぴったりだった。金魚鉢のようなそのフォルムといい、厚みが二重になっているため底がぐらぐらと揺れて見えることといい、高杉にも、高杉のこの部屋にも、かちりとその鍋ははまりこんでいた。そう、無駄がない。
 待ちきれず鍋のなかで浮き沈みを繰り返す鶏肉を沖田が裏返すと、まだ薄っすらと赤い。まだだ、と隣の土方が神妙な表情を浮かべて呟いた。あ、動揺してる。と、沖田にはすぐわかった。で、何処にいなくなるんですか。沖田の問いかけに、高杉は笑った。そんなん云ったら面白くないだろうよ。まあ、そうですね。沖田は再び鶏肉をひっくり返す。まだだっつってんだろ。土方が低く呟く。どのぐらい、いなくなるんですか。この沖田の問いかけには、高杉は答えない。答えたくないことには、徹底的に無視をかますのも高杉だった。高杉が、ひょいと鶏肉を掴みあげる。おい、まだ。土方の制止を振り切って高杉の前歯が薄赤い鶏肉をがりっと噛み砕いた。うっせえな、ちょっと赤いくらいでいいんだよ。土方が黙り込む。
 薄くスライスしたニンニクを噛み締めながら、沖田は高杉の部屋をぐるっと見回した。何も無い。在るのは水槽だけ。いくつもの四角い水槽が、不均一に置かれている。高杉曰く、きちんと計算された緻密なこだわりのもと、それらの水槽は配置されているらしい。しかしフロアリングにおろした尻が冷えて仕方ない。その状態で鍋を覗きこむわけだから、腰も痛い。せめて卓と椅子ぐらいは置いておいてほしい。
 それにしても。沖田はぶくぶくと泡を吐き出す水槽を見た。今まであのなかでゆらゆらと泳いでいた魚たちが、一匹たりともいなくなっているではないか。ねえ、魚どこいったんですか。ああ海に帰した、と高杉は砂肝を箸で取りあげながら云った。海に? それで、と高杉が珍しく言葉を続ける。お前ら、明日から此処に住め。は? 土方が顔をあげ、何云ってんだとこぼす。ほい鍵。高杉がポケットから出してフロアリングに滑らせた鍵が、沖田の膝元でとまる。いいんですか。沖田はその鍵を拾いあげて鼻歌。愉快になってきた。土方は何も云わなかった。この人に何か云えるわけがないのだ。高杉が考えを覆すわけがないし、だからといってすべて受け止める度量も土方にはなかった。味が薄くなってきたな、と沖田が手を伸ばすと、其処にあった一升瓶を高杉がぱっと取りあげた。何の躊躇もなく、瓶を傾け透明の鍋のなかにどぼどぼと注ぎ足す。数万はくだらない、純米大吟醸。豆腐を高杉の細い指が、ぱっぱと放り込んでいく。土方は箸で豚肉を一枚一枚丁寧に剥ぎ取りながら酒水のなかにいれ、箸からそっと離す。中で、ふわっと豚肉が円を描く。味付けもお構いなしに塩胡椒を何度も振り落とす高杉に、土方は顔をしかめた。そして、その瞬間だった。土方が静かに、不意打ちのように、その疑問を口に出したのは。
「坂田は知ってんのか」
 扇風機の回るような音が、透明の鍋から響いていた。果たして、この鍋は熱に耐えうるのだろうか。本来ならオーナメント用の筈だろう、と沖田はどうでもいいことを考えた。銀時には云わねえよ。高杉が、大吟醸の残りを自分の盃に傾けつつ云った。土方が小さく息を吐いたのが、沖田にだけわかった。今日、坂田が呼ばれていない時点で、「そういうこと」だった。あ、そうだ。と突然、高杉が立ちあがる。足で灰皿をどけて(通るのに自ら障害物を避けるということを絶対にしない)、左手で盃の中身を飲み干しつつ、水槽と水槽の間を高杉は歩いていく。ぼうっとその背中を沖田の視線が追う。なんですかィ。ベランダへ続く窓をスライドさせて高杉は、しゃがみこみ其処に置いてあるスリッパのうえのものを取った。それは、携帯電話だった。一瞬、開いただけの窓から冷たい風が部屋の中へ雪崩れ込んでくる。いよいよ、透明の鍋が軋んだ音をたてた。誰の携帯ですか。俺の。高杉の返答に、土方が顔をあげた。お前、携帯なんて持ってたのか。 高杉は鍋のところまで戻ってきて、どさりとフロアリングに座り込む。銀時専用。高杉がそう云った。わーお、と沖田が楽しそうに笑う。さすが同じ施設で育った仲ですね。てめえらもだろ、と高杉はぐびぐびと瓶ごと呑み始める。灰皿に置いてあった煙草を指で挟み、唇へと持っていく。俺と土方さんが初めて喋ったのは施設出てからでさァ。どっちでもいい。土方が煙草に火を点けた。この人、俺に初めましてとか云って。総悟、黙ってろ。へーい。沖田は鍋の残りをすべて自分の皿に移した。それを見計らったかのように高杉が膝立ちをした。
 なぜ膝立ち? 沖田と土方がぼんやりそんなことを考えた瞬間、突如、高杉は鍋のなかに持っていた携帯を放り落とした。え。土方と沖田から短く声が漏れた。泡がぶわっとあがり、透明の鍋が悲鳴をあげたようにぱきんと云った。慌てて土方が火をとめる。湯気がもわあと立ち昇り、互いの顔がぼやける。何やってんだお前! 土方が手で湯気を掻き消しているのが、その輪郭でわかった。沖田は、あっはっは、と大声で笑った。こりゃいいや、と目尻の涙を拭って、暫く笑い続ける。湯気が消えると同時、透明の鍋に大きなヒビがはいっているのが目に入る。そして、其処に沈む携帯電話。その液晶も割れている。坂田専用だと高杉は云った。つまりは、「そういうこと」だった。土方がその鍋の底を、じっと見ていた。なんちゅう顔をしてるのか、と沖田は思った。そして坂田がこれを見たらきっと同じ顔をするのだろうとも思った。高杉が煙草の煙を吐きながら窓の外を見た。此処は、海から一番遠い場所だった。
「銀時、泣くかね。」
 高杉らしからぬ気持ちの悪いことを云う、と沖田は耳を疑う。