濡れた新聞紙を丸めて捨ててから、雨の当たらぬ屋根の下まで移動した。手に持っていた紙袋からカセットコンロとボンベを取り出し、公園備え付けのテーブルに置く。ベンチを跨いで座ると、尻がじんわりと湿っていく。煙草に灯をつけ、唇に銜えてから、広場の中心にあるジャンボ滑り台の方に目を凝らす。耳を澄ますと、かたかたと微かに音が聴こえてくる。土鍋。滑り台の上に置いた土鍋に雨水が跳ね返っていく音。まだもう暫く待たねばならない。ライターをかち、かち、とやってる間も、水溜りの数は増えていく。視界を雨が覆い尽くし、サングラスの内側が曇っていく。三本目の煙草を銜えたところで、何処からか人声が聴こえてきた。気のせいかと思ったが、妙に低く殺伐としたその声色は、耳を傾けずとも意識の中に侵入してきた。眼球を右に左に動かしてみた。無数のけぶった線を掻い潜っていくと、公園の入口のあたりで目がとまる。其処だけ雨が避けていく。輪郭が浮かびあがる。ん、と声に出た。それは坂田だった。地面から伸びているその白い輪郭は、傘を差すこともしていない。立ち上がり、滑り台まで歩いていき、其処にある土鍋の中を覗き込んだ。ちょうど良い量の水がぐらぐらと揺れていた。土鍋を抱え、水をこぼさぬよう注意しながら、坂田の名を呼んでみた。雨音が強いので、叫んでいるようになった。そのおかげか、すぐに坂田は振り向いた。と、そのとき坂田の向こう側に、もうひとり誰かいるのに気付いた。白い輪郭の向こうの、黒い輪郭。その黒い輪郭が、俯いていた顔をあげる。あ、しまった。無意識に煙草を噛み締めた。長谷川さん。坂田の唇がそう動いた。此方へと歩み寄ってくる。その気配が近付いてくるまで、土鍋の中の水面をじっと見おろしていた。撥ねては広がり、跳ねては消えていく。眼前まで迫った影が、同じように土鍋の中を覗き込む。何これ。冷え切った手が僅かに震えた。えーと。長谷川は視線をあげた。今から鍋するんだけど銀さん達もどう? 云いながら、拒否の言葉を待っていた。達? 坂田が目線をあげる。その坂田の背後、延長上で強烈な気配を放っている男に、どうしても目が行く。男と目が合った。互いに軽く会釈しつつ長谷川は呟く。鬼の副長さんも、だろ。坂田がわざとらしく、あ忘れてた、と振り返った。

 まさか春雨だけとかいうんじゃねえだろうな。コンロの上に土鍋を置き、ボンベをセットし蓋を閉じてから、雨水が沸騰するまで待った。水面が泡を吹き出したのを見て、ビニル袋から大量の春雨を流し込む。え、春雨だけだよ。坂田があんぐりと口を開け、雨水だけでもありえねえっつうのに、とぼやいた。沸騰した雨水のなかで透明の春雨がぐるぐると回る。ちら、と視線を土方に向けると、土方は柱に凭れて立ったまま静かに煙草をふかしていた。銀さん達、何か食ってきた? なんで。ニンニク臭いんだけど。手持ち無沙汰なのか坂田は菜箸で鍋の中をかき混ぜながら、焼肉、と云った。贅沢だなァ。てかふたりで焼肉って、仲の良いことで。箸先に春雨が絡まってもつれている。あちらさんが俺にどうしてもご馳走したいって云うから仕方なく。短くなった煙草を柱にじゅ、っと強く押しつけ、土方が素っ頓狂な声を出した。なにやら口論がはじまったので、頭を低くして、唯一自腹で買ったポン酢を紙皿にそそぎいれる。春雨を掬って、その茶色のポン酢のなかに浸す。啜ろうとしたところで、目の前に土方が座っていることに気付く。いつのまにこちら側に来たのか。そして、さも当たり前のように春雨を掬いあげる男ふたり。なんか、このふたりって。と思って春雨を啜ると、しょっぱさが舌をじんわりと痺れさせた。げっ、なんかほこりっぽい味だな。長谷川が思ったことを、坂田がこぼした。それでも、男たちは春雨を掬い続けた。土方がいるだけで、いつもより周囲がひりひりとしていた。指先が痺れていた。時折、風が吹いた。そのたびにコンロの底の炎が揺れる。なんとなく、思っていることが口について出た。おふたりさんは、ここで何を? さっと沈黙が訪れた。今までも黙っていたが、それより遥か次元の違う沈黙が訪れた。掬いあげた春雨がぷるぷると震えていた。跳ねたポン酢が親指を染めた。や、焼肉の後の楽しい寄り道ってかハハ。取り繕って出した声が上擦ってしまった。土方の目が長谷川を通り越して、降りしきる雨を瞳に映していた。……雨宿りだ。そう呟いて、土方が目を伏せた。次は長谷川が黙った。坂田も土方も見るからに、ぐっしょりと濡れていた。鍋をつついているおかげで、長谷川の身体はだいぶ温もってきているものの、坂田と土方の髪先からは未だ雫が滴り落ちそうだった。長谷川が公園の入口に目をやったとき、坂田の背中はちっとも動いていなかった。耳にかろうじて入ってきた声は、殺伐として低く篭っていた。少なくとも、其処に屋根はなかった。吹き曝しの場所で、雨風に曝されながら、ふたりの男はじっと立っていた。長谷川が持っていた鍋を、ひょいと坂田が持ちあげたときに微かに触れた指。そうだ、あのとき坂田の手は途轍もなく冷たかった。

「お前、実はあのときのこと覚えてんだろ」
 坂田が唐突に云った。は?土方が顔をあげる。坂田が土方をじっと見ている。再び沈黙。長谷川には何の話か、てんで見えない。あのとき?坂田の言葉の意味も土方の沈黙も。どうしていいかわからず鍋のなかの水面にただただ目を凝らしていた長谷川に、土方の意識が向いたのがわかった。あ、っと、俺邪魔ならどっか、と云いかけた長谷川の言葉を坂田が遮る。長谷川さん。ハイ、と反射的に長谷川は返す。坂田のだれた目が間近で揺れていた。ふやけてきてんぞ。え、と鍋の中を覗き込むと春雨がふやけたように雨水の中で渦巻いていた。あ、うん。長谷川は残りの春雨を掬いあげポン酢に浸す。液体の光沢がぬるぬると光を放っている。

 そして坂田の鋭い眼が、再び土方に向いた。

「都合の悪いことは、いつも忘れたふりだもんなァ?」
 ば、と土方の目線があがる。土方の噛み締めた煙草からぐじゅっと音がした。挑発するように坂田は土方を見て微かに唇だけで笑った。曇った視界、ぼやあっと浮かぶ土方の輪郭。そこには土方の鋭い眼光があるのだろう。坂田の呟きに、長谷川は春雨を飲み込んだ。坂田のこんな声は聞いたことがなかった。長谷川は坂田の表情を読み取ろうとしたが、鍋からもくもくとあがる湯気で視界は霞むばかりだった。
 ただの春雨を平らげてしまってから、長谷川は土鍋を持ちあげた。鍋ごと口に持っていき、厚い縁を銜えて、斜めに傾ける。ごくごくと、すべての雨水を一気に飲み干してしまった。喉にはりつく粘膜を無理に飲み込んで、膨れた腹を摩った。信じられない、という顔で坂田と土方が長谷川を見ていた。唇を手の甲で擦って、公園の入口に目を向ける。アレお迎えの車じゃないの。土方が視線をあげ、眼を細める。組んでいた足を解き、立ちあがった。ごっそーさん。雨音が強まった。耳底で聴いたこともないような濁流の音が流れている気がした。ちら、と土方の眼球が坂田に向いた。坂田は俯いたまま顔をあげなかった。土方は屋根の下から出ていき、公園をゆっくりと突っ切っていった。すべての雨は土方に吸い寄せられていった。そういう風に見えた。車から現れた黒い影が、傘を差して土方の方に走り寄っていくのが見えた。坂田の視線がずっと、同じ場所から動かなかった。長谷川はコンロの蓋を開けボンベを取り出す。ボンベを振ると、空っぽの音がした。視界を覆う雨がすべて春雨にみえた。透明にうにゃうにゃと鬱陶しい。どうにも腹の底が、ぐにゃんと波打つ。坂田は強かに酔っていて、最後になめくじみたいな顔でこう云った。

「これだから雨男は嫌なんだよ」

 銀さん、俺も雨男だよ。とは長谷川には到底云えなかった。